clio60の、既記JAWS。

思いつきから趣味の話まで。

一番苦手な科目の講師として飯を食っていた時期があった。

どれぐらい苦手かというと、高校1年で留年レベルであった。教科書を開いたそばから吐き気(時には眠気)がして、全く頭に入って来ず、自分ではどうしたらいいかわからない。赤点は当たり前。担任からも見放された(直接の理由は追試を受けなかったことだったが。当時の自分は不登校気味で、追試当日も体調不良だった。母が学校に休む連絡を忘れていたんだが、そら担任も怒るわ)。

 

「終わった…。留年するぐらいなら学校やめるわ。」

 

が、留年はしなかった。首の皮一枚つながって、学年一のバカクラスへ進級。救ってくれたのはある参考書だった。わらをも掴む思いで本屋に行き、偶然見つけた。今振り返ると、人生を変えた一冊って自分にとってはこれだったのかもしれない。偏差値は35から2倍に上がった。そこからの学生生活は(ry

 

いや、書きたいのはそんな事ではない。ここで問題なのは、

なぜ、留年の危機になるまで手を打とうとしなかったのか?

である。

 

先延ばしにも程がある怠けっぷり。それまで本屋で参考書コーナーに行った記憶は無く、音楽雑誌やF1雑誌(某少年誌がスポンサーについたことで有名な、某貴公子が駆る、神経質過ぎる代表のいる紅白カラーのマシンのチームが連覇した年だった)ばかり立ち読みしているぐらいだった。今考えても呆れるが、いずれにせよ留年を免れたからよかったではないか。

 

果たしてそうだろうか。

留年しなかったのがまずかったのではないか。

何とかなってしまったのは問題ではないだろうか。

 

前より少しは改善したようにも思えるが、未だにギリギリまで問題に向き合わない傾向は残っているからだ。人生、なんとかなるのは確かだ。しかし、それはなんとかなったなりの人生でしかないのではなかろうか。

 

そんなことを思いながら生徒を指導していた日々だったが、学生当時の自分の気持ちを考えると説教されたって疎ましく感じるだけで聞き入れなかっただろうと思う。だからハナからそんな野暮はしなかった。相談されたらアドバイスはしてもいいかと思っていたが。

 

ただ、苦手意識のある生徒の気持ちを理解することだけには自信があった。ま、当然だ。そもそも、苦手な科目を教えるために教鞭を取ろうとすること自体がなかなかおかしな話である。昔から得意なやつに質問すると決まってこういう答えが返ってきた。

 

「ま、そういうもんだから。覚えて。」

 

覚えられるなら苦労はせんわ! だいたい、理解できればまだ記憶に残りそうなもんだが、そんなわけにもいかず。だからこそ、まず自分が理解できるように、別の言い方をすると、なんとか納得できるように研究したのだった。

 

勤務先は個別指導の単科目の塾で、センスの無い生徒、成績の悪過ぎる生徒を担当していたが、授業は基本的に「被害者の会」スタイルを取っていた。

 

被害者なんて言うと大袈裟だが、簡単に言えば「覚えろで片付けられても困るし、腹立つよなぁ」と一緒になって愚痴を吐くやり方でコミュニケーションを取っていた。愚痴なんてネガティブなもんは排除した方がいい、それはそうだろう。しかし、こうした愚痴を吐いたほうが問題に向き合い易い場合もあるのではないか? 結局、後になって、これは弱点の分析をしていたのだと気づいたが、どんな小さな事でも拾おうとしたのは、本人さえ気づかない苦手な箇所(些細なものだからこそ、だ)は積もり積もるととんでもないストレスになると経験上わかっていたのだと思う。

 

気がついたら長い文章になってしまったが、このテーマだけは真面目に取り組もうと思っている。つづきはまた書くということで、自分の人生を狂わせ、また、救ってもくれた英語という科目についてのお話でした。